はるはるとはじめのい〜っぽ

ダウン症がある息子と、シングルマザーである私の記録用日記

「羨ましい」について2 みんな違う/ひらめの独り言

昨日の記事の追記です。
追記ですが、昨日の記事よりも長文です。
すみません。


「羨ましい」ということで悩んでいた頃、色々な「羨ましい」が私の耳に
飛び込んでくるようになりました。

テレビの中でのことです。
何をテーマに話し合っていたのか、忘れてしまいましたが
話は「羨ましい」に変わりました。
出演されているのは、タレントさんや女優さんで女性の方ばかりの番組でした。
あるタレントさんがこうおっしゃっていました。
「私は長い間、不妊で悩んでいます。
 言葉は悪いですが、例え、流産された方でも死産だった方でも
 一度はお腹の中に宿ったという事実が
 私には非常に羨ましくてしょうがありません」

これは、ある冊子の読者欄でのことです。
「知り合いに、旦那さんを亡くされた方がいて(70代)、その方に
 旦那さんが亡くなって楽でいいわね~。って言ったら彼女がこう言いました。
 『主人がいる苦労。いない苦労』
 なるほどなと思いました。私は、旦那さんがいないことで
 自分の時間が増えて好きなことができていいなと思い込んでいました。
 でも、いることで苦労があるだけじゃなくて、いないことでの苦労も
 あることを知りました」

これは、「羨ましい」からはぐーーーーんと離れてしまいますが。
国と国との争いをみても、片方の国の目でみたら
自国は「正義で善である」となり、相手国は「悪である」になってしまうのではないかと思います。
でも、相手国は決して「悪の集団」ではありません。
相手国も「正義」を通している訳です。


結婚して長男を授かったばかりの頃、子育てが大変だということを
友人に相談しました。
相手は、愚痴に聴こえたのでしょう。
彼女からはこのように返信がきました。
「あなたは同居で羨ましい。子供を見てくれる人がたくさんいて羨ましい。
 うちは、私だけだからとっても大変なんだよ」
同居といっても住んでいる家は違います。
それに、義理両親は仕事をしています。
とても孫の面倒をみる余裕などありません。
だから、私もそのお友達と同じで、一人で面倒をみていました。
その時に知りました。
「同居=人手がある。家事や育児も手伝ってくれる」
という図式ができているんだなあって。
同じように子供がいるというだけで相談にのってもらおうとしたけど、
住んでいる環境が違うと、「羨ましい」と感じさせてしまうんだなと
いうことを知りました。


ある友人がポツリと言いました。
「私の友人にこの前3人目が産まれたんだけど、
 私が一人目を産んだときの年齢で3人目を産んだんだよね。
 いいな。3人も産めて。
 私は、もう無理だな」


オーラの泉」という番組で、江原さんがこのようにおっしゃっていました。
「羨ましいと相手に感じるときは、その相手の表面だけではなく、中身までをすべて
 ひっくるめて羨ましいと思わなくてはいけません。
 例えば、芸能界で成功して華々しく見えて羨ましいと思っても、
 その方は、最初から華々しい訳ではないからです。
 苦労に苦労を重ねた上での今があります。
 それに、華々しく見えても色々な嫉妬の目を向けられたりして、意外に本人は
 辛かったりするものなのです」


はるはるを授かった当初によくこう言われました。
「皆同じだよ」
って。
障がいがあろうがなかろうが、皆いつ死ぬかは分からない。
悩みも皆もっている。
あなただけじゃない。
子育てをしている母親同士
「皆同じだ」
と。
もちろん、私のことを心配して前を向くようにしてくれようと
して言ってくれていたことはよく分かりました。
でも、言われるたびに傷ついていたのが本音です。
どうして、傷ついたのか。
これもさんざん考えました。

結婚できない苦労。結婚した苦労。
伴侶がいない苦労。伴侶がいる苦労。
子供を授かれない苦労。授かった苦労。
兄弟がいない苦労。いる苦労。
同居でない苦労。同居の苦労。
不美人である苦労。美人である苦労。
なかなか成功できない苦労。成功できた苦労。
上司である苦労。部下である苦労。
持ち家でないことの苦労。持ち家であることの苦労。
ふくよかである苦労。やせっぽっちである苦労。
胃腸が丈夫である苦労。胃腸が弱いことの苦労。
親がいない苦労。いる苦労。
・・・

考えたらキリがないですね。
片方の目で物事をみたら、片方しか見えてこない。

ある視覚のトリックの絵があります。
この絵のタイトルは忘れてしまいましたが、
白い紙に黒でなにやら模様が書かれてあります。
白い面だけをみるとそれは「砂時計」にしか見えません。
黒い面だけをみるとそれは「二人の人の横顔」にしか見えません。
また、こういう視覚トリック絵があります。
女性が書かれてあるようですが、
ある人は「老婆」にしか見えません。
でもある人には「若い女性」にしか見えません。

これらの絵は、同時に両方を見ることができません。

「羨ましい」という感情も、話はぐーーんとそれてしまった国の話も
一方の目線でみると、一つしか見えてこないのだと思います。
それは、もちろん「自分の境遇」を基点にしてしか見ることができません。
当たり前の話です。
皆、自分の人生しか知らない訳ですから。

どの方の人生にも「華々しい」瞬間もあれば「苦しい」瞬間もあります。
華々しい中にいても「苦しみ」がまったくない訳ではないと思います。
苦しみの中にいても「すべての事柄が苦しみに値する」訳ではないと思います。

そういう意味では「皆同じ」なのでしょう。
でも、だからこそ「皆違う」のだと思います。
それが今の私の結論です。
一人一人が抱えている問題や境遇や諸々の事柄。
それらは、皆違いますよね?!
抱えている問題が違うと抱える苦悩も違います。
苦悩の程度(悩んでいるテーマの深さ)も違います。

華々しい瞬間はいつまでもは続きません。
苦しい瞬間もいつまでもは続きません。

たまたま、苦しい瞬間にいるときに同じようなテーマで「華々しく見える」瞬間の人と
出会ってしまったとき、「羨ましい」感情が芽生えるのではないでしょうか。
でも、「華々しく見える」方にも違った部分で「苦しみ」を抱えているんです。

今回のことで、「知る」ことが大切なのかもしれないと思いました。
片方の目だけで物事を見てしまっている自分を。
自分が何に固執して、何に苦しんでいるのかを知ること。
そして、相手にも苦しみがあることを知ることを。
それを知れば、「謙虚」な気持ちでいられるのかも知れませんね。
物事によっては「羨ましい」と感じることで
「よーし!私も頑張るぞ!」という奮起につながることも
あると思います。
でも、「羨ましく」感じることが「苦しみ」につながることも
あると思います。
苦しい状態でいるのは嫌です。
だから、今回は思いっきり悩んでもがいて、自分なりに答えを出しました。

ぎっくり腰になったころ、
「ひどく人間関係で傷ついたことがあって・・・。
 自分を一つ許すことで心が一つずつ軽くなる」
というような記事を書き込みました。
実は、あのときに悩んでいたテーマが今回の「羨ましい」だったんです。
昨日と今日で書き込めたのは、ある程度自分なりに結論が出せて
悩んでいたことに整理がついてきたから書き込む勇気が出たのだと思います。

何よりも
例えば、はるはるはまだお座りの練習中ですが、
はるはる自身は恐らく
「ぼくよりも若いお友達はもうお座りができてる!
 羨ましい!苦しい!なんでぼくだけお座りがまだしっかりできないんだろう」
とか
「ぼくはまだ離乳食が進まないんだ。なんでも食べられるお友達が羨ましい」
とは思っていないだろうということです。
それらを羨ましいと思うとすれば、「この私」なんですから。

昨日と今日の記事で、誤解を産んでしまったかも知れませんが
私は決して「羨ましい」と思うことが悪いと言っている訳ではありません。
また、それらのことに関して責めるつもりは一切ありません。
ただ、長い間、自分なりに悩んできたので、この悩みを解決したくて
色々と葛藤してきたことを皆さんに知っていただきたかっただけなんです。
私と同じような悩みをもっている方が、私の葛藤する姿を通じて、
解決に向かうまでの心情の変化について、何かしらのお役に立てれば幸いだと思いました。